事象に意味があるのかではなく、意味を持たせる。

最近、哲学書のまとめの本を読んだりしている。
図書館のWEB閲覧だ。便利な世の中だ。

その中で、いろんなことには意味があるのではなく、その事象が自分にとってどんな意味があるのかを考える、という旨があった。

たしかになあ、いろんな出来事は何かしら意味がるのかもしれないけど、それを「自分にとってこれはどんな意味があるのか」って考えるのはすばらしいなあ、と思った。

一瞬ね。

でもね、それだけじゃあ、足らないんじゃないかな、と思う。

いま、仕事でとてもつらい。上司にあたられとてもつらい。
そのことを、とある夜、「これはどんな意味があるのだろう」って思ったとき、「きっとこれは僕を成長させるための出来事なんだ」って思ったとする。
次の日同じように上司に嫌みを言われる。けれども僕は昨夜思った「成長させる出来事」と思って耐えることができる。
それから一年後、二年後、三年後、十年後、部署は変わらず上司は偉くなり、僕はそのまま。上司からの嫌みは減ったが、僕は相手にされなくなり、そのままの地位で隅っこで仕事している。おかしいな、成長しているはずなのに……。

でも、でも。
僕が一年後、会社を辞め、他の職につき、成功する。成功まではいかなくとも、気持ちよく仕事ができる状態となる。結婚したり、子供が出来たり、昔と比べると心も穏やかだ。
そんなとき、「ああ、あの上司が嫌みを言ってくれたからあんな仕事にけりをつけるとこが出来たんだ」と思える。

逆に、勝手に意味を解釈すると厄介なことになる。そんなことはたくさんある。
では、今あることの意味を問うのは無駄なのか……。

そんなことは、ないですよね。
上記の、最初の方の僕はもっと考えるべきだったと思います。
きっと二番目の僕は「成長させるための出来事」と解釈したはずです。その後、「ではどうするか?」と自分に問うたはずなのです。「成長した暁には、僕はこうなっている」というビジョンを組み立てたはずです。

おそらく、そこまでがワンセットでしょう。つまりベクトルの矢印を定めることが重要なのではないでしょうか。

ということで、私も頑張りたいと思います。

コメント