昨日の話の続きっぽいが、他者が気になるということを、根本的な所から考え直した方が良いという話。

私は起きている大半を他人に使っている
これは、いろんな意味に捉えられるのだが、固定したい。まず、自分と家族、仲間等いわゆる「ウチ側」に該当する人たちの事柄を考えたりすることを「自分」としたい。ある意味直接的に自分が関与できることだ。それに対し、「電車で動かない奴がいて、どうにか...
極端な輩って、やっぱり極端で、道理は通用しないんだなっと思う。彼らなりのルールがあってそれはきっとそういった人生を生きてきたのだから仕方ないと言えば仕方ない。
なので、結論は「近寄らない事」なのだと思う。でも、どうしても絡まなければいけない時は、本当に饅頭の薄皮のような表面のみの応対が良いとつくづく思った。
極端な話、逃げた方がよい場合もあると思う。
「闘う」ことや「構う」ことって本当に無意味で無益な事だと強く思うし、無駄な事でプラスなことなど一つもないのだ。
確かに、腹の立つことも多い。それは「ソト」に対しての対応が間違っている。
他者を直すことはできない、もしくは難しい。それならば自己を修正していく方がどんなに利があり、容易い事か。
それは、極端な話、会社を辞めるとか、地元を離れるとか、転校するとか、そういった形になるのかもしれない。
ただ、チャンスがあるならそうした方が良い。他者に労力使うのなら、変えやすい自分をいじった方がストレスは少ない。
上記の話はよく自己啓発の本に書いてある。
経験上、うえの話は、正しいと感じている。ただ、難しいけど……。
最近いろいろあって、改めて上記の事を感じている。
その一つの結論が「危うきに近寄らず」だった。
まあ、君子ならば、そういった事も考える必要なないと思います……。
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